今日は朝から最悪だった。
 休日に有志で開いている道場へとマティアスが稽古に向かう途中、村娘のラニアネに声をかけられて、今まで滅多に会話など交わすことなどなかったので何事かと思って話を聞いてみると、ずっと前からマティアスのことが好きだったと頬を赤くして告げられた。よく意味が分からず、それで?と訝しげに問い返せば、今度は顔を青くして震え始め、その場からものすごい勢いで走り去られた。
 訳が分からないと思いつつも、いつも通り道場で稽古を済ませ、昼食を取りに自宅へ帰る途中、今度は村の青年バクトにかなりの剣幕で詰め寄られ、どうしたことか殴られそうになったので咄嗟に避けて相手の片腕を脱臼寸前まで持って行ったところで、周囲にいた村人たち数人に力ずくで止められた。
 別に自分から喧嘩を吹っ掛けたわけではないし、喧嘩を売られる理由も分からないのに……などと心の中でぶつぶつ言いながら昼食を済ませ、午後から世話をすることになっていたイザベルの屋敷を訪れると、なぜかイザベルはやたら怖い顔をして玄関から出迎え、マティアスに「お前、ラニアネに何を言い、バクトをどうした」と問うてきたので、一体どうして主はお怒りなのだろうと疑問に感じつつ、ありのままを説明すると、今度は「少し殴っていいか」と真剣に訊かれた。なぜ殴られなければならないのかと眉を顰めながらもイザベルの言葉に逆らうことなどできず、どうぞと頬を差し出せば、軽い力ではあったがバシッと平手打ちされた。
「もう今日は会わん」とイザベルは玄関から再び屋敷の中へ戻ってしまい、マティアスは乱暴に閉められた扉を見つめ、ずいぶんと長い間その場に立ち尽くしていた。





 気が付いたら村の外れにある墓場の近くに一人で座っていた。空は朱色に染まり、暗くなると道が分からなくなるのでそろそろ自宅に戻らねばと思うのだが、どうしても岩の上から腰を上げることができず、暗い気持ちでじっと地面を見つめている。一体、何が、どうなっているのか分からないが、イザベルに叩かれた頬が未だ痛む。いや、とっくに痛みなど治まっているはずなのに、これほど傷ついて気力が失われてしまっているのは、主の怒りを知らないうちに買ってしまったという罪悪感が消え去らないためだ。イザベルの屋敷の扉が閉ざされたときから、今日一日の出来事を何度も思い返しているのだが、一体どこに原因があったのかマティアスには見当もつかなかった。ラニアネには問われて返しただけだし、バクトには暴力を振るわれかけたから腕を抑え込んだだけで、自分に否があったわけではないと思われるのだが、あれだけ不機嫌な主を見るのは今回が始めてだった。バクトに体術を仕掛けたのがやりすぎだったのだろうか?
 もう何度目か分からない溜息をついていると、向こうから名を呼ばれて顔を上げた。村の中では唯一友人として親しくしているアデストが手を振りながらこちらに歩いてくる。少し癖のある灰色の髪と青い瞳が特徴的な背の高い男だ。

「マティアス、探したぞ。どうしてこんなところにいるんだよ」
「アデスト……いや、そろそろ戻るつもりだった」

 それでもマティアスの身体は強張ってしまってうまく動かないのだった。アデストは近くに立ち止まるとマティアスの隣にひょいと腰かけた。

「イザベルさんに何か言われたんだな?」
「……」
「もう全員に知れ渡ってるが、今回はお前もちょっとばかし悪いところがあったなあと俺は思うさ」

 マティアスは驚き、アデストを半ば睨むようにして見た。彼は幼馴染で、今回の出来事ではマティアスの味方をしてくれると思っていたのに。

「私の何が悪かったというんだ?」
「まあ、お前の鈍感さは今始まったことじゃない。でもほんとにお前なんにも分からないのか?」

 問われ、正直に「分からない」と断言する。アデストは呆れたといった様子で嘆息し、引き寄せた膝に頬杖をついた。

「かわいそうに、ラニアネ」
「どういうことだ。私は普通に応対しただけだ」
「ラニアネはお前に告白したんだぞ? 愛の告白だ。どれだけの勇気が要ったことか」
「愛の告白? 単に好きだと言われただけだ。私に対する質問でもなかったし、その続きはなんだと問いかけただけじゃないか」

 今度はじろりと睨まれる。お前はそういう奴だよな……とアデストは呟き、周辺に広がっている木々の葉を眺めやった。

「お前、どうしてバクトがお前を殴りに来たか分かるか?」
「分かるわけがない」
「バクトはラニアネがずっと好きだったんだよ。一方のラニアネはお前のことがずっと好きだった。お前のラニアネに対する態度にバクトは怒ったわけだ」
「? どうしてそこでバクトが怒るんだ」
「お前が彼女に冷たかったからだろ」

 アデストの説明に、マティアスは顔には出さないが腹の中で憤慨した。自分はこれっぽちもラニアネに冷たい態度を取ったつもりはないのに、どうしてそんな勘違いをされなければならないのだ。その勘違いが村中に伝染して、行き着く先がマティアスに対するイザベルの平手打ちだというのか?
 理由を問いただすために眉間にしわを寄せてアデストの横顔をじいと見つめる。アデストはちらりとマティアスに視線をやって苦笑した。

「そして、お前は"イザベル様がすべて"だ。叶わぬ恋をしたラニアネもラニアネだが、お前はもう少し気を遣った言葉をかけてやるべきだったってことさ」
「気を遣う? ラニアネに? どうして」
「ラニアネを傷つけないためにさ。俺だったら、ありがとう、嬉しいよ、でもごめんな、みたいな感じで言ってやったかな」
「嬉しい? ごめん? 嬉しいのに謝るのはなぜなんだ」
「あああ」

 急にアデストは声を上げ、片手で額を押さてうなだれた。

「すごい面倒くさいな、お前」
「面倒くさい?」
「つまりだな、マティアス。お前がラニアネとバクトにしてしまったことは、イザベルさんがお前にしたことと同じくらい、深く傷つくことだったんだよ」

 マティアスは固まった。

「……何?」
「とにかく、お前はまずラニアネに謝れ――と言いたいところだが、自分自身がなぜ謝るのか分からないのに謝っても逆効果だ。とりあえず先にイザベルさんのところへ行け。そしてイザベルさんに謝ってから説明を受けろ。彼女もお前が恐ろしく鈍感なことは、とうに分かっているはずだからな」

 ほら行くぞ、とアデストは岩から降りて歩き始めた。衝撃の事実を聞かされ、頭がくらくらするマティアスも慌てて後を追いかける。隣に並ぶと、アデストは乾いた笑いを浮かべながら「マティアスは悪い奴じゃないんだけどなあ」と、マティアスに聞こえるように独り言を呟いた。





 村人が寝静まった夜、マティアスはイザベルの屋敷の裏にいた。屋敷の入り口の門は閉ざされていて、林と隣接している裏側の塀に一か所登れるところがあり、そこから庭へと侵入することができた。以前イザベルに教えてもらった道なのだが、緊急事態が起きない限りは使うことはなく、本当は今日もここに来るつもりはなかった。散々迷い、居ても立ってもいられず自宅を抜け出し、ここまでたどり着いたのであるが、二階にあるイザベルの部屋はすでに消灯されていた。
 二階を見上げつつ、マティアスは溜息をつく。そもそもイザベルに頼まれたわけでもないのに他人の屋敷に勝手に入り込むなど怪しいこと極まりないだろう。不審者になる前に帰るべきだ……と踵を返した時、二階の窓が開く音がして、マティアスは振り返った。暗い部屋の中、寝間着姿のイザベルが窓から顔を出して、こちらを見下ろしている。

「マティアス。何の用だ?」

 咎められると思ったが、意外にも彼女は微笑していた。マティアスは彼女を見つめたまま少し沈黙し、正直に答えた。

「報告をしに」
「ラニアネに謝罪をしたという報告か」
「はい……」

 傷つけてしまったラニアネに謝ったことを報告するのは明日以降でよいと言われたのに、わざわざ命令に背いてここへ来てしまったのだ。やはり怒られるのではないかとマティアスは緊張しながら主の反応を待っていた。
 イザベルは、そうか……と空をぼんやりと眺めていたが、急に窓枠に手をかけると、下に降りようと両脚を外に出した。白いネグリジェがひらりと舞うのを見たマティアスは慌てて真下へと走り込む。イザベルは従者が来るのを分かっていたかのように躊躇いなく下に落ち、マティアスの両腕に収まった。
 一体何を考えているのだと冷や冷やしつつ、イザベルをそっと地面に下ろす。むろん彼女は靴など履いておらず、草むらに直に足をついたことを心配したが、彼女は気にするなと得意げに笑って見せた。

「あまり大きな声で話すと、父が起きるからな」

 足首まであるネグリジェを翻らせ、彼女は短い草むらの上を楽しそうに歩き始めた。マティアスはその場に佇んだまま、彼女の姿をぼんやりと目で追った。月明かりに照らされる主の姿はすらりとして優雅で、まるで人間ではない別の美しい生き物のように感じられる。
 少し離れたところでイザベルは立ち止まった。マティアスがのろのろと近づくと、彼女は振り返った。

「ラニアネは、お前の謝罪に対してなんと言っていた?」
「……気にしなくてよいと。少し無理をして笑っている様子でした」

 そうだろうなとイザベルは頷いた。

「お前は美しい男だ。女性たちの憧れの的なのさ」

 美しいという形容にマティアスは眉をひそめる。自分がそんな修飾語を遣われるなど思ってもみないことだった。
 訝しんでいるのが伝わったのか、イザベルはくすくすと可笑しそうに笑った。

「まあ、お前を好きになった女は苦労するさ。お前は私がすべてなのだろう。だから私もまたその女どもに恨まれるのだ」
「イザベル様が? イザベル様のことを恨む人間など許せるはずがありません」
「だがなあ、マティアス」

 イザベルは再び身を翻してマティアスに背を向け、歩き始める。

「私にとっては、お前がすべてではないぞ」

 彼女の言葉に、マティアスは腑に落ちないような、少し腹が立つような妙な気持ちを抱いた。マティアスもまたゆっくりと歩みつつ、夜の闇に白く光る華奢な背中を見つめる。

「かまいません。私にとって大事なことは、イザベル様をお守りすることです」
「マティアス」

 振り返らないまま、イザベルは少し低い声で従者の名を呼んだ。

「私を守ることが周囲を傷つけることになってはいけないのだ」

 マティアスは目を細める。

「……そのようなつもりではありませんでした」
「分かっている。だが、この言葉は忘れず胸に留めていてほしい。己の正義はしょせん己にしか通用しない。自分が正義だと思っていても相手にとっては不義かもしれん。お前は忠実であるあまり、視野の狭いときがある……」

 イザベルは立ち止まると沈黙した。マティアスはどう反応していいか分からず、彼女の背後に佇み、癖のある髪の毛の合間から覗く白いうなじを見下ろしていた。自分の守るべき女性の身体が目の前にある。だが、いつも不思議だった。こんなにも近くにいるのに、未だ主の心がよく分からないのだ。自分はどうやら人間の心理に疎いところがあるらしい。どうしたら分かるようになるのだろう。ラニアネやバクト、アデストの心や主の心を。どうして彼らが深く傷つくのかを。
 ふと、イザベルがこちらを向く。マティアスはうなじに伸ばしかけていた手を咄嗟に下ろした。

「私を失ったらお前はどうなる?」

 急にそんなことを問われ、マティアスは少し不安になりながら首を傾けた。

「そのようなこと……」
「仮定だよ。私を失ったとき、お前はどうなる?」
「分かりません」

 分からないのは、そんなことを考えたくなかったからかもしれない。

「失うなど……」
「でも、いつかはどちらかが先に逝くぞ」
「やめてください!」

 淡々とした主の態度に耐えられなくなって、思わず両肩を手でつかむ。イザベルの驚いている表情が見えて手を遠ざけたかったが、どうしてかできなかった。そのまま懐に引き寄せ、主の身体を抱きしめる。

「そのようなことをおっしゃらないでください。
 よいのです……あなたにとって、私がすべてではなくとも……」
「……マティアス?」
「私の望みは、あなたをお守りして死ぬことです」

 マティアスの言葉に、胸元でイザベルが微かに苦笑するのが聞こえた。

「私の望みはな、マティアス」

 ああ。
 強い女性だとずっと思っていたが、男の自分に比べれば、なんと細く、儚い。

「お前が幸せになることだよ」

 彼女の言葉が意味するところは、マティアスにはよく分からなかった。